歴史
製造工程

 自然が生んだ天然貴石の透明感あふれる色合いと輝き。甲州水晶貴石細工は精を極めた彫刻と入念な研磨技術によって、この天然貴石の秀れた味わいに人生の感性を経た「美」を加えているのが特徴。

 凄味さえ感じさせる昇竜像やいななぎが聞こえてきそうな馬像。どの作品にも流れるようなまろやかな曲線の美しさが生き、さまざまな表情と踊りだすような躍動感がみなぎっている。

 こう言った表情を貴石に彫り込むには、高度の伝統技術を駆使した職人の手作業が欠かせない。原石を削り彫刻して磨く作業はちょっとした刃の当て方の違いで、一瞬のうちに原石を砕いたり傷つけたりするからで、少しも気の抜く暇のない、緊迫した作業だ。その意味では、甲州水晶貴石細工の美しさは「緊迫の美しさ」と言えるもの。

 中でも石を鎖状に彫る「遊環」技術のすばらしさは、例えようもない程見事。石は生き物であり、それを知り尽くし彫りこなす技はまさに「神業」を思わせる。

 こうした伝統技術の背景には、甲府がかつて水晶の産地であり、古くから信仰の対象や貴族の装身具として水晶細工が行われていた事がある。現在でもその心は引き継がれており、精巧で沈美な高級品を中心に、他に類を見ないほど豊富な貴石類を使った多様な作品を生み出している。

 水晶の原石は今から1,000年前の平安時代に、御岳昇仙峡の奥から発見された。当時は原石のまま飾り、信仰としていたらしい。やがて細工を施すようになるが、武田勝頼の遺品の中に水晶数珠が残っている事から、既に戦国時代には水晶細工が行われていたものと見られる。

 甲府での水晶細工の起源は江戸時代になってから。享保年間(1716年〜1736年)に甲州御岳・金桜神社の神官が信仰対象として水晶玉を鉄トイを使ったのが始まり。砂を鉄板に巻いて水晶を磨く方法は京都から招いた職人によって伝えられたもので、甲州研磨として定着、江戸時代末期には地場産業の基盤を築いた。記録によれば安政年間(1854年〜1859年)の土屋家(元土屋華章製作所)の「曼注文帳」に水晶やひすいなどを使った数珠や帯留、根付などの注文があり、産地として確立していたのがうかがえる。

 明治時代になると根付、かんざし、帯留などの需要が増え、職人の育成も盛んになる。しかし明治末期には水晶資源が絶え、大正初期には南米やアフリカ諸国から水晶やめのう、ダイヤモンドなどの貴石を輸入し、伝統の研磨技術を駆使して加工する産地となった。設備の電化により生産効率が高まり、発展の足がかりをつかんだのもこの頃で、美術工芸品、装身具をはじめ精密機械部品まで生産するようになった。当時、第1回パリ万国博にも出展、その彫刻研磨の技術は日本だけではなく海外にまで定評を得た。

 戦後、輸出が急増、製品の80%は海外向けという好況を博するが、昭和50年のドルショックや中国製品との競合などもあって、その後輸出はグンと減った。現在では国内向けに高度な技術を駆使した製品を産出している。一部、皇室に干支の動物などを献上している。